平成6年2月発行
著者:(故)山田善市
から引用させていただいております


三世紀のころ、朝鮮の渡来人が、太陽に三本足の烏を、故国の旗印としていました。
「鳥は、太陽からの使者である」という、伝説が中国・朝鮮にあり在地化したと考えられます。
それらの人たちが大字烏脇に、天津小屋根命(あまつこやねのみこと)を神明宮(今の神明神社)に祀り、その旗印を神紋とした。
烏脇には、古くより太陽に三本足の向い烏に波を図案化した、村の紋所があり、幕や提灯に描かれ今に伝えられています。

古事記に「神武天皇のご東征に八咫烏が先導して、今天より八咫烏を遣せむ」と伝えています。
烏脇の紋所
聖徳太子建立の法隆寺にある国宝玉虫厨子(たまむしずし)の裏側にある海龍王宮図の右下に、玉免・蟾蜍(せんじょ)(がまがえる)、左上に太陽に三本足の烏が描かれております。
仏教美術として伝えられたもので、中国・朝鮮からの渡来人によってつたえられたのでしょう。
玉虫厨子の烏
六世紀の継体天皇の始めころ、大臣(おおおみ)(右大臣)に巨勢(こせ)・大連(おおむらじ)(左大臣)に大伴(おおとも)、その下に物部各族が各職位についていました。
530年頃巨勢が姿を消し、536年蘇我(そが)が右大臣となった。
539年には左大臣には、物部がなり、大伴と権力が逆転しました。
その前に仏教が伝えられ、蘇我(佛道派)と物部(神道派)の権力の争で、物部は滅ぼされてしまった。
生き残った同族は青森に敗退しました。
青森県黒石市浅石に羽黒宮(現羽黒神社)があり祭神は倉稲魂命(くらいなたまのみこと)・挙田別命(ほむたわけのみこと)となっています。
そこには三本足の烏が神紋として伝えられています。
三本足の烏は物部族の旗印であったと考えられています。
朝鮮高句麗(こうくり)真坡里(しんはり)古墳より出土した壁画には、太陽を円であらわし、中央に三本足に烏が描かれています。
烏は雄鶏のように”トサカ”があり、外側の円内には太陽の火焔紋(かえんもん)をめぐらしています。
中国東晋の壁画にも三本足の烏がえがかれているそうです。
(第2次大戦前朝鮮平壌博物館長、小泉氏資料によると注釈付)
烏脇の紋所は、太陽に三本足の烏が共通しております。
高句麗辺りから渡来人によってもたらされたものと考えられております。

朝鮮高句麗真坡里古墳壁画
永禄六年(1563年)9月、大明国の雪峯子(せつほうし)にの言う、儒教が、日本に渡ってきて、今日将軍家にお目にかかりて、雪峯子は、天地・日月・星辰(せいしん)・五行・陰陽・大極・無極の図をかいて将軍に奉る。
南禅寺の妙典和尚が将軍のお傍に伺公して、是を聞き、問答された、雪峯子の書くところの図は、両曜之図、雪峯子いわく、両曜説いわく、中には烏ありと言う、三足烏日(いわく)陽精の宗積て烏衆となる、烏陽のたぐい其数竒(き)なり。
月の中に兎あり、蟾蜍(せんじょ)(がまがえる)月は陰精の宗て成、獣衆兎、陰のたぐい、其数ぐう周・・・
両曜の三本足の烏

正倉院に保管されている「桑木阮咸(くわのきのげんかん)」は、円形の胴に長い棹を持つ四弦の楽器である。
上部に、左右一対の円形飾りには、左側の「日図」、三本足の鳳凰、右側に「月図」、ヒキガエルやウサギが描かれている。
太陽は昇り沈みを、月は満ち欠けを繰り返すことから、日月図は再生や不死を意味し死後の世界での安隠を願う・・・
(正倉院学ノートより抜粋)朝日選書623 米田雄介・樫山和民編著


桑木阮咸

日図

月図

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